練供養は、古くは迎講(むかえこう)と呼ばれていました。迎講は、平安時代中期に、比叡山の僧だった恵心僧都源信が、西方極楽浄土へ生まれ変わる手引書『往生要集』を書き、その内容が実感できるように比叡山で始めた宗教劇でした。野外で行われ、阿弥陀さまとたくさんの菩薩が仮面を着けて登場していたと想像されています。
平安時代後期になると、主役の阿弥陀さまは大きな仏像を登場させることを思いつき、法隆寺や四天王寺で開催された儀式には、布の袈裟を着せた2メートルを超える木彫の阿弥陀如来立像を登場させていたことが文献から類推されており、兵庫県の浄土寺には、仏師快慶作の像が伝わっています。
しかし、儀式の目的は、極楽浄土の阿弥陀さまがこの世まで迎えに来て、死者を浄土に導く様子を演ずることでしたので、阿弥陀さまにも少しは歩いてもらいたいと考え、今日の「ひこにゃん」や「くまモン」のような、人が像内に入る"被り仏"(かぶりぼとけ)を思いついたのです。
江戸時代以前にこの儀式を行っていたことが確認されている寺院は80近くあるので、実際はその何倍もの寺院でこの儀式を行っていたと想像されています。現在、確認されている"被り仏"は5例ですが、その中で、現役で活躍しているのは、弘法寺のみです。布の袈裟を着た像は8例が確認され、浄土寺の像が伝わっていますが、浄土寺の儀式は途絶えているので、結局、古い儀式の様子をしのぶことができるのは弘法寺のみです。
極楽住生を厳かに再現し、日本三大練供養のひとつとされる千手山弘法寺踟供養。見所のひとつは、人が像内に入り演じる木造阿弥陀如来立像(迎え仏)です。鎌倉時代後期から現在まで法会の本尊として使用され続けているのは、弘法寺踟供養が国内で唯一の例で、誠に貴重な存在とされ、一年に一回、当日のみ公開されます。
「踟」の字の意味は、諸橋轍次『大漢和辞典』によると、”たちもとほる”、”ためらふ”であり、「踟供養」はそのまま解釈すれば”歩き巡る供養””行きつ戻りつする供養”ということになります。
平成27年度 千手山踟供養保存会名簿 | |||
平成27年11月24日現在 | |||
No | 役職名 | 氏 名 | 備 考 |
1 | 名誉会長 | 關 信子 | 美術史家 |
2 | 会 長 | 大重 強志 | 遍明院地元代表 |
3 | 副会長 | 黒井 覚然 | 遍明院住職 |
4 | 副会長 | 津守 修廣 | 東壽院副住職 |
5 | 会 計 | 西村 繁 | 東壽院地元代表 |
6 | 事務局長 | 野口 祝志 | 遍明院地元代表 |
7 | 顧 問 | 黒井 泰然 | 遍明院名誉住職 |
8 | 顧 問 | 津守 密乗 | 東壽院住職 |
9 | 顧 問 | 小橋 修一 | 前協議会会長 |
10 | 顧 問 | 岡崎 巧 | 前協議会会計 |
11 | 監 査 | 木津周二郎 | 遍明院 |
12 | 監 査 | 乙倉 勲 | 東壽院 |
13 | 委 員 | 山本 正 | 遍明院総代長 |
14 | 委 員 | 山本 俊介 | 東壽院総代長 |
15 | 委 員 | 出射 勝巳 | 遍明院副総代長 |
16 | 委 員 | 池内 雅範 | 東壽院副総代長 |
17 | 委 員 | 東森 貢 | 遍明院 |
18 | 委 員 | 光本 視晴 | 東壽院 |
19 | 委 員 | 桜田 輝夫 | 遍明院 |
20 | 委 員 | 浮田 孝充 | 東壽院 |
21 | 委 員 | 大重 和美 | 遍明院地元代表 |
22 | 委 員 | 岡本 嗣郎 | 東壽院地元代表 |
23 | 委 員 | 大重喜志子 | 遍明院地元代表 |
24 | 委 員 | 万城 進 | 東壽院地元代表 |
25 | 委 員 | 小橋 正雄 | 東壽院地元代表 |
踟供養保存会では、近隣の方で衣装の着付けが出来るボランティアを募集しております。
詳細につきましては、お問い合せください。
※2017年のボランティア募集は締切りました。
問い合わせ先
遍明院:0869-34-2050・東壽院:0869-34-2455
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